コミュニティと「選民」意識

 

*本記事は 高橋龍征氏のnote記事をご本人の許諾を得たうえで加筆/転載した記事となります。
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如何なるコミュニティでも、「中の人」と「外の人」とを分かつ軸があり、そこには多かれ少なかれ「自分たち中の者は他と違うのだ」と思わせる要素が必要です。

誰しも「他の人と自分は違う」と思いたがるもので、コミュニティへの帰属をその拠り所とするからです。

コミュニティが人を選ぶ必要性

入る人を選ばないコミュニティはありません。

カジュアルなものであれ、コミュニティには何かしらの目的があり、その目的に応じて人や活動を選ぶ「軸」ができるからです。

場づくりについて書かれた『最高の集い方』でも「有意義な集まりを開くために最も重要なのは、目的の設定であり、主催者は、目的に深くコミットして招待客を厳選する必要がある」としています。

これは、イベントについて書いてありますが、コミュニティにも通じる考えです。

 

本来、選別とは「優劣」ではない

 

「人を選ぶ」とは、偉い偉くないといったことではありません。

上記『最高の集い方』に、大学生が気軽に悩みを打ち明けられことを目的として、大学生限定という「」を設けたバーの事例があります。

そのバーが評判となり、副市長が視察しようとしたのですが「大学生限定」という軸を徹底し、入店を断ったそうです。

上記書籍の中に「「どなたも歓迎します」は誰も歓迎していない」ともあります。

参加者も何かしら目的があって場を選ぶ以上、その場がどんな人にとっては目的が満たせ、どんな人にはそうではないか、それが端的に自己判断できる軸を明示した方が、お互いに無駄な時間を使わずに済むということです。

 

建前と本音

 

それはそれで事実なのですが、「選ばれた」優越感や実利の要素がゼロならば、そこに帰属しようという誘引が働かなくなるのも、偽らざる本音でしょう。

コミュニティを探す人が内に持つ矛盾は以下のようなものです。

・中にいる人が「質の高い」場に行きたい
・自分でも入りやすく、居心地の良い「敷居が高くない」場であって欲しい
・露骨に選民的な軸を標榜している場に自分から行くのは憚られる

上手い軸はその辺の本音と建前を上手く汲んでいます。

「テニスサークル」に入る学生の大半はテニスが目的ではありません。読書以外が目的の読書会もあると聞きます。

しかし、「人に言っても憚られない」口実があることで、大手を振って行けるのです。

 

軸を決めることの難しさ

 

主催者は直接会って話せない未来の参加者に、我々のコミュニティは入るに値する価値がある、と伝えたい思いを持っています。

しかし、その想いが強すぎて露骨な示し方をしてしまうと、良識ある層が敬遠し、「エサ」に釣られてくる層や、自分が「選民」だと思っている連中を惹きつけてしまいます。

まあ、中には自分が「選民」と無意識に思っているような主催者もいないとは言いませんが。

ファンやユーザーの会でも、意識しないと、長く愛好している人、マニアックに突き詰めている人、たくさんお金を使っている人、たくさん発言・行動している人が「偉い」という雰囲気がでます。

コミュニティは本来公平であるべきで、場の価値向上への貢献に応じて処遇する部分も必要ではありますが、上級者には上級者の、初心者には初心者の提供できる価値があるべきで、マニアが偉いという風潮が蔓延ると、新参者に敬遠される「老衰」のサイクルに陥ることになるでしょう。

 

 

軸を途中で変えるのも大変

 

「誰がその場に相応しく、誰がそうではないか」というのは、場のあり方の根幹に関わります。

一度ある基準で入れてしまって、色々活動してみて主催者が自分の目指すものが見えてきた時に、やっぱり違ったといって軸を変えるとなると、矛盾と齟齬を内部に抱えることになります。

それまで一緒にやってきた人が、場合によっては基準から外れることがあるからです。

出てもらうなら摩擦も生じるでしょう。本人だけでなく、その人と懇意にしてきた人も、よからぬ感情を抱くかもしれません。

場としての整合性を保つための対峙を避け、中に不整合を抱えたままにしておけば、恣意的な運営をしているとの誹りを避けられません。

曖昧な軸にすると、本来の対象ではない人の流入を抑えられなくなります。

 

徐々に軸を固める方法

 

場を立ち上げたばかりの段階では、主催者自身もこの場を通じて何を実現したいのか、どういう活動をしていきたいのか、腹落ちしていないこともざらにあります。

最初に仮決めしていても、活動を始めてみると当初の目的や軸がしっくり来ないことに気づき、当初と違うものになることはよくあります。

軸を後で変更する影響を回避するには以下の方法があります。

1)ゆるく作り徐々に固める
2)うまく噛み合わなければやめる

1は、最初は「準備委員会」のような名称にして、後で改変する前提を明示するのも一案です。

2は、前提となる考え方は「多産多死」前提で試作を複数つくり、うまくいったものを伸ばす、というものです。

少なくとも、本格的な活動を始める前に「幹部」メンバーや「組織」を作り、ビジョンやルールなどを固めるようなことは、下手にしない方がいいということです。

 

軸の種類

コミュニティの参加者を規定する軸は、まず大きく「客観・主観」に分かれます。

学校の卒業生のように、誰がみてもわかるものと、「XXに関心がある」のような、そうだと言えば・思えばOK、といった性質のものです。

客観軸も参加者が柔軟に適応できるものと、適応できないものに分かれます。

柔軟に適応できない客観軸は、年代、性別、出身地など、過去に遡って変えられないものから、居住地、出身校、企業・職業、高額製品ユーザーなど、帰ることはできるとしても、実質的なハードルが高いものです。

柔軟に適応できる客観軸としては、例えば安価な製品のユーザーなどです。

 

残念な「軸」

時々見る残念な軸の例を挙げてみようと思います。

 

「既に死んでいる」軸

同年代の会のようなものは、最初は分かりやすく気安いのですが、長続きしないものの典型です。やがて皆家庭ができたり仕事が忙しくなります。しかし、似たような人々が集まったところで、あまり得るものもなく、そうなれば暇人以外来る必然性がなくなります。

同業の軸も硬直化や序列化への注意が必要です。

同じ関心を共有し、実践する同士から学びを得ることもできますが、所属企業や実績や知見の量による序列意識が生じれば、新しく参加する人に居心地の悪い回になるでしょう。

デジタル化などによって従来の知見が陳腐化した際には旧来の運営メンバーはそれまでのような価値を出せなくなることもあります。

しかし、一度「心地よい場」に座った人々が、時代が変わったからといって新しい人々にその座を喜んで明け渡すことは稀でしょう。

これらの軸が無条件に悪いわけでもありませんし、役目を果たして終わることが悪いわけではありません。

ただ、コミュニティとしてあるべき姿を維持するのに努力と自制が必要であり、それを怠れば存在し続けることが目的化する「脳死」に陥るということを、主催者は想定する必要があります。

 

「恥ずかしい」軸

 

言うのを憚られる軸もあります。以前見たのは「イケてるビジネスマンの会」のような(そこまでストレートな言い方ではなかったですが、主催者に聞いたらそんなことを言ってました)会でした。

残念ながら、内心そう思っている人ですら、それを露骨に言いたいとは思わないでしょう。

しかも、実際に参加しているメンバーが微妙だと、その主催者の程度を晒すことになります。

そういった場に喜んで参加している自身の程度を軸そのものが伝えることになるのです。

起業、政治、社会課題など、権力欲や承認欲求を絶対善のオブラートに包みやすい意識高い系の軸もそのような傾向があります。

これらは軸そのものより、どんな人がどんな活動をしているかといった内実の方が重要だったりします。

繰り返しますが、こういった軸が自動的に悪いわけではなく、それで成功しているものも多くあります。

運用や実質に注意が必要ということです。

 

やや巧妙な軸

 

主観的な価値判断を表に出さないやり方もあります。

例えば先にもあげた特定の学校のOB会、企業のアルムナイ、出身や居住の地域、特定製品のユーザーなどです。

地域というのはニュートラルに見えますが、「港区女子」のような言葉が端的なステレオタイプを示すように、ある種の属性と強い相関があるので標榜しやすかったりもします。

フェラーリやヨットの所有者の会のようなものも、表面上は製品の所有者である以上のことは言っていませんが、その金額のものを購入できる人は、、といった推定が働くものです。

私の経験でも、いきがかり上多種雑多なイベントをやりましたが、ビジネスに関連するテーマのものよりもアートなど趣味性の強いものに、思いがけない人が反応する傾向があると感じたことがあります。

 

軸以外の方法

 

敢えて招待制にする方法もあります。

facebookも元々はハーバードなど米国の名門大学の学生限定・招待制にして「そこに入りたい」と思わせる気持ちを刺激しました。

日本で流行った初期のSNSであるGREEやmixiにもそのような要素があり、自分が少し人より優れた地位にいることを、露骨ではないけれど明確に誇示したいという気持ちが拡散の原動力となりました。

もちろん、そうではない人もいたと思いますが、急速に広まるのはそのような人の根源的な欲求を刺激したからだと思っています。

 

初期コミュニティにおいてこの方法を使えるのは、自分自身が「ハーバード大学生」であるなど、何かしら入りたいと思わせる要素があることです。

そういうものがある人なら手段として使えば良いと思いますが、そうった「材料」を得たいがためにコミュニティを活用しようと思っている人にはなかなか悩ましい話です。

富むものは益々富む、ということは、人の繋がりにおいても言える不都合な真実ということでしょう。

つながりを求めて名刺交換やfacebookの「友達」増やしに勤しんでも、相手にとって「その他諸々」であれば、その関係性は無意味なのですが。。

 

本当の「選民」コミュニティは招待制

ちなみに本当の「選民」※コミュニティは招待制であり、公開すらされてないことも多いです。

※「選民」とは便宜的に使っているだけです。私がそう思っている訳でも、当人達が自らをそう考えている訳でもありません、多分。念の為。

多くの人が「お近づきになりたい」と思う場であれば、余計な人が紛れ込まないようにすることの方が重要だからです。

招待制は既存メンバーの「審査眼」によって人を選ぶため、人を選ぶ総合的な観点を持つまでその場の参加経験を積んだ人でなければ招待はできないですし、自律的に広がらないという性質はあります。

しかし、そもそもそういった場は、人数よりも中にいる人の質を重要視しますし、そこにいる人の質的純度の高さがコミュニティの価値なので、そもそも大きくしようという考えがないのです。

ちなみに私が関わったもので公開されているものでいうと、ソニーのファウンダーである盛田昭夫さんが立ち上げた政財官の勉強会「自由社会研究会」というのがありました。

ここには書いてあるとおり、歴代総理が複数人、財界大手企業の創業家、省庁の次官コースに乗っている人々がごく少人数、定期的に集まっていました。

私が関わっていた頃には盛田さんも亡くなられて久しく、もう細々とという感じにはなっていましたが、それでも錚々たる人が参加していました。

 

これは時代背景や設立者の点で特異な例ではあり、「勉強会」であってコミュニティではないとも言えますが、これに類するサロン的なコミュニティは世に大なり小なり存在し、それが公開されることは基本的にないと思います。

「ダボス会議」のように公開のものもありますが、これまた特筆すべき実績ある人のみが招待される、極めてハードルの高いものです。

 

勘違いに気をつける

時々、大規模に公開で「選ばれた人」を募る仕掛けをみますが、それはあくまで参加者の選ばれたい欲求に訴えかける方便として言っているだけです。

そこに選ばれたからといって、本当に「選ばれた」人になれるわけではありません。

そうはいっても、「そこそこ」の人が集まってくるでしょうから、分かった上で手段として利用する分にはいいのでしょうが、本当に勘違いすると、ちょっと残念なことになります。

また、自分のコミュニティ「有名な人」が来るといっても、「お客様」として来るのと、プライベートで参加するのとは、当然顔を使い分けています。

「有名人」をゲストに呼んだところで、それほど場としての価値が上がるわけではありません。

多くの勘違いは、主催者が「選民」になりたいと思うところから生じている気がします。しかし、コミュニティは主催者の権力欲や承認欲求のためにあるのではありません。

あくまで参加者のため、参加者にとっての価値実現のためにあるのであり、主催者の自己実現はその延長の上にあるはずです。

仕事として降ってきたなら別ですが、自分の好きで始めるなら、参加者価値に殉じられるかは、まずは一呼吸置いて考えてみるといいと思います。

 

結局、軸をどう選べばいいのか

 

答えはありません。人によって前提条件が大きく異なるからです。

考える時の材料としては以下があるでしょう。

1)目的=誰のために何を実現したいのか
2)自身の「アセット」「資質」
3)人の「本音」
4)自分の知らない世界の存在→謙虚さ・冷静さ

上に述べたように、本格的に動き出す前にかっちり固めるよりは、試行段階を作って徐々に固めて行ったり、試作的なものを作りながら、メンバー、関係性、テーマ、タイミングなどがうまく噛み合って「種火」が点いたものに燃料を投じていく方式が、現実的なのではないかと思います。

あとは、その前提として、日頃から1人1人ときちんと関係を構築していくことでしょうか。

赤の他人の自己満足に付き合ってくれるには、それなりの関係性があるか、よほど共感するものでなければならないでしょう。

月並みですが、案外そういった当たり前すぎることが重要であり、「コミュニティ」という言葉に浮つくと、見落としてしまうのではないかと思う時もあります。

ぜひ、気軽に良い場をつくってみてください。

コミュニティは必ず矛盾を抱える

中立的であるべきという建前と、参加者の「選ばれたい」欲求を満たす本音の要素も同時に満たす以外の矛盾もあります。

コミュニティが活性を維持するには多様性と公平性が必要です。軸がなければ多様ではなく雑多になりますし、ルールがあるから公平が成り立ちますが、軸そのものは同時に、同質性と序列を生み出す力を持ちます。

コミュニティの成立要件は「目的があり、目的に基づく軸があること」であり、軸がなければコミュニティとは言えません。

コミュニティというものは根本的な矛盾を必然的に中に抱えたものなのです。

 

 

◆執筆者 高橋龍征 / Takahashi Tatsuyuki

conecuri合同会社 代表 WASEDA NEOプロデューサー 情報経営イノベーション専門職大学 客員教授

大手システムインテグレーターの営業、経営企画を経験後、MBAを経て、ソニー、Samsungで事業開発を中心としたキャリアを歩み、事業創造支援家として独立。インキュベーター立ち上げや欧州企業の日本進出を支援後、スタートアップ共同創業(取締役COO)を行う。

早稲田大学の社会人教育事業「WASEDA NEO」プロデューサー就任を機に、事業開発や人材育成のためのセミナーづくりを本業とし、大学、企業、メディアからの受託や自身主催で、年間200件の企画を実現するようになる。

2020年、conecuri合同会社を設立。マーケティングセミナーの企画、社会人向け講座や企業研修の開発、それらを通じた事業創造を支援している。

新型コロナを機に、セミナーを一気にオンラインにシフトさせ、その知見を『オンライン・セミナーのうまいやりかた』として出版した。

また、13年以上複数のコミュニティ運営に携わる実践家として、大手企業や学校のコミュニティづくりも支援している。

早稲田大学 第一文学部 哲学科 東洋哲学専修 卒業 早稲田大学大学院 ファイナンス研究科 修了 青山学院大学ワークショップデザイナー育成プログラム 修了 JVCA ベンチャーキャピタリスト研修 修了

 

 

◆著者プロフィール

株式会社まーけっち 代表取締役社長 山中思温

マーケティングリサーチのシステムとデータの提案営業を経験後、 最年少で事業部を立ち上げ、若年層国内ナンバーワンのユーザー数を達成。
リサーチの重要性と併せて、コストや施策への活用の課題を痛感し、中小・スタートアップでもリサーチやマーケティング施策の最適化をより手軽に利用できるようにする為、リサーチ×マーケティング支援事業の”株式会社まーけっち”を創業。

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